「NANA」に現れる孕む女/孕まない女

 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040926

 野原さんから、私の9月23日の記事(http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040923)への応答を頂きました。私は、随分と野原さんの文章を恣意的に読んでいたようなので、訂正と反論をご本人から頂いています。今回のやり取りの中で、私に明らかになったのは、野原さんが論じているのは、「子供を産む主体」ではなく「子供として生まれる客体」についての部分だということです。野原さんは「わたしの危惧は、「生む/生まない」という欲望し選択する主体の側からだけ物事を考察して良いのか、という点にあります。」と主張します。
 私たちは、形の定まらない(自我が曖昧な)存在=子供として、この世に生み出され、「家族」(子育ての共同体)の中で主体としての「私」を形作っていきます。 その「私」は「家族」をつくり、その中で新たな子供を迎え入れ、新たな「私」の形作りに関わっていきます。
 そのようなサイクルで私たちは「私」であることができます。「生む/生まない」という選択を為す主体もまた、そのサイクルの中で生み出された「私」です。そして、私が「生まない」という選択をすれば、そのサイクルは途切れます。その理由に、野原さんは、私たちの主体としての欲望をあげます。

「産むな」というベクトルはどこにどのように存在しているのだろうか。わたしたち一人ひとりは、主体でありたいという欲望とそうでなければならないという命令に振り回されている。これらの課題にわたしたちは存在の全面を挙げて向きあわねばならず、子供という選択肢は脱落と思われる。

 子供というのは、他者であり、主体としての「私」を脅かす存在です。もし、私が「私」であろうと思えば、子供(他者)を受け容れることは、非常に難しいでしょう。むしろ、「私」(主体)を保つために、子供(他者)を、排除するという選択が為されるのではないのか、という危機感がここにはみられます。今ある「私」(主体)を根幹から揺るがすかもしれない子供(他者)への恐怖こそが、「産むな」というベクトルではないか、というのが野原さんの指摘です。この点に触発されて、もう少し議論を進めました。

 ここから、矢沢あいの「NANA」という少女漫画をとりあげようと思います。今回、着目するのは、奈々とナナの他者観についてです。奈々は、妊娠してしまいます。それが、今の恋人の子供か、前の恋人の子供かわかりません。しかし、前の恋人は避妊していなかったので、おそらくは、その人の子供だと思われます。自分の妊娠を知った奈々は、一度中絶を考えますが、結局は、前の恋人と結婚し子供を産むことを選択します。そのことについて奈々は次のように語ります。

奈々「誰にも内緒で堕ろしたら何事もなかったように今まで通り生きてけると思ったの…でも病院で…ほんとに自分の子供がお腹にいるんだって分かって…急に実感みたいのが湧いて…(略)…お腹の子の命を守ってあげられるのはあたしだけだって思ったし…」
「NANA」8巻(本棚あり)

ここで奈々は、いわゆる「母性本能」が自分の中絶を阻止したのだと言います。子供(他者)の命を、母親である「私」として一人で背負います。奈々は、父親として前の恋人との結婚を望むのですが、それは

奈々「なんとか一人でも産んで育てられないかなって考えたけど…現実問題お金がないし…つわりが酷くてバイトさえ行けないし…」
NANA」8巻

という金銭的な問題が、一番で、相手の男は最重要ではないと明言します。奈々は、「私」が生みたいから生む、つまり、主体の欲望として生みます。そして、その欲望の源は、他でもない、子供(他者)です。子供の存在が奈々を、それまでの新しい恋人との関係や、将来を放棄させ、それまでの「私」(主体)を突き崩し、生むという選択をさせるというのです。そして、その根拠に、奈々は「母性本能」と名づけます。
 一方、一見、奔放にみえるナナですが、コンドームで避妊しない恋人のために、ピルを欠かさず飲んでいます。

レン「何?おまえ またピル飲んでるの?」
ナナ「誰のせいだ!そんなにガキが欲しけりゃ他の女に産んでもらえ!」
NANA」6巻

ナナが子供を産むことを嫌がるのは、本人の複雑な出自もあるのでしょう。ナナは、奈々と次のようなやり取りをしています。

ナナ「まともに育てられねえんなら産むべきじゃねえんだよ。世の中ふざけた母親が多すぎるよ」
奈々「べつにふざけて産んだわけじゃないと思うよ…ちゃんと育てられないのはきっと色々やむをえない事情があったからで…子供が出来たら産んで育てたいと思うのは当然だもん」
ナナ「なんで当然なの?」
奈々「え?なんでって…」
ナナ「…」
奈々「分かんないけど…母性本能とか…?」
NANA」8巻

そのあと、ナナは自問自答します。

ナナ「もし レンの子供が出来たとしたら プロデビューを控えてて あたしは絶対困るのに 産みたいなんて思ったりするのかな レンの為じゃなく自分の本能で」
NANA」8巻

ナナは、奈々のいうところの、母性本能という言葉に動揺し、自分の考え方を揺るがされます。ナナにとって、子供を生むという選択は、今の「私」(主体)にとっての選択です。ナナは現在の「私」(主体)を維持するために、その「私」(主体)の障害となりえる子供(他者)は排除するべき存在です。また、もし、その子供(他者)を受け容れるとすれば、それは恋人という別の他者によって望みによってであり、「私」(他者)の欲望ではありません。
 ナナは恋人(他者)に対しても、「私」(主体)であることを貫こうとします。

ナナ「どんなに深く愛し合っても きっと誰もあたしを満たせない でもステージに立っている時だけは完全体になれるんだ 守り抜かなくちゃ 自分の夢だけは何を犠牲にしても」
NANA」9巻

ナナにとっては、「私」(主体)を維持できるのは「私」(主体)だけであり、これから先の、未来の「私」(主体)も「私」(主体)によってしか作り出せません。恋人や子供(他者)には「私」(主体)を作り出せないことをはっきりと言います。

ナナ「明るい未来へのシナリオは 自分自身で書かなくちゃ もうなすすべもなく立ちつくしていた 子供じゃねえんだから」
「NANA」11巻(本棚あり)

ナナは、「私」(主体)を作り出す子育て共同体を否定的に捉え、そこからの脱出を肯定的に捉えています。「私」(主体)を作り上げる他者を拒絶し、今の「私」(主体)を維持しようとします。ナナにとって、未来を切り開くのは「私」(主体)以外にはありえないのです。
 対照的に、奈々は、「私」(主体)の基盤を失っていきます。

奈々「あの満月の夜が たぶん人生で一番幸せなひとときだったよ(略)欲しい物が全部手に入ったような気がして 夢と希望で胸がいっぱいになって 未来がキラキラ輝いて見えたの あんな翳りのない幸せに満たされる事はきっともう二度とないよ」
NANA」10巻

満月の夜とは、奈々が新しい恋人と付き合い始めた夜です。奈々はその恋人と愛し合い、将来的にも付き合っていこうと考えていたのに、子供ができたことによって、その夢は絶たれてしまいます。奈々は子供(他者)を源とする「生む」という新たな「私」(主体)の欲望により、それまでの「私」(主体)の欲望の頓挫を経験します。奈々は子供(他者)に寄り添う形で、自らの「私」(主体)を変化させたのです。奈々にとって、未来を切り開いたのは子供(他者)です。
 望んでいない子供(他者)との出会いによって、「私」(主体)を変化させた奈々と、子供(他者)との出会いを避け避妊を続けるナナ。「NANA」は、どちらが正しいといったり、より良い生き方だといったりもしません。しかし、自分の体が子供を孕み得ると知ったとき、この問題は全てのそういう体を持つ人が直面せざるをえない問題です。
 私たちは、生まれたときは、子供(他者)としてこの世界に到来しました。望まれても望まれなくても、子育て共同体に放り込まれ、そこで「私」(主体)を形成し、他の子供(他者)の到来を選択する側にまわりました。私が、「私」でいられるのは、「私」を他者として存在することを受け容れる子育て共同体があったからです。では、私はその子育て共同体を作る側にまわらなくても良いのでしょうか。
 
 この問題に直面したとき、私たちは、子を生み育てるという行為の、別の局面に到達します。それは、「少子化だから」や「女性としての務めだから」というような主張と別の局面です。私たちもまた、新しい子供(他者)を作り出す役目があるのではないか、という問題です。結論から言えば、私は、その役目はあると思います。
 ただし、それは、私の子供を生み育てる義務ではありません。私の延長線上の子供としてではなく、他者としての子供を生み育てる義務です。「私の」「地域共同体の」「この社会の」「この日本の」子供ではありません。そして、私の役に立つ子供でもなければ、日本の役に立つ子供でもありません。あくまでも他者としての子供であり、「私」(主体)を揺り動かし、理解不能で厄介な他者であり続ける子供の傍にいることに、耐え続けるための子育て共同体です。そういう意味では、子育て共同体には、参加せざるをえないと思います。
 その主張は、私が子供を産むことには直結しません。私以外の人が産んだ子供を育てることにも直結します。(勿論、日本以外の子供も)。別に社会主義のように、国という共同体で子供を育てる必要もありません。しかし、生んだ人でも、生んでいない人でも育てることに社会的なコンセンサスを得られなけれななりません。これは、前回述べたとおりです。この観点から考えれば、異性/同性愛の違い、男性/女性の違いを越え、「私」(主体)であるから、子育て共同体に参加する、という認識が得られると思います。そのとき、もはや奈々が名前をつけた「母性本能」という、子供(他者)を受け容れようとする衝動は、別の名前のものになるでしょう。
 子供は、親の持ち物ではないし、親の了解範囲を常に逸脱しようとします。そういう生き物である子供を受け容れる、ということに対する恐怖と、自分もそうしてまた受け容れられることにより主体化してきたという安堵の間の振幅の中で、私たちは子供(他者)の存在に目をそらすことはできません。その中で、私たちは「私」(主体)を省み、子供(他者)を受け容れるのか、という選択を常に迫られるのです。
 そういう意味では、私も、子育て共同体の必要性は肯定します。

『華氏911』というメロドラマ

 遅ればせながら、『華氏911』を観に行きました。マイケル・ムーアに乗せられてたまるものかと、斜に構えていたのですが、うっかり途中で泣いたり笑ったりしてしまいました。次々と仕掛けられるミエミエの泣きと笑いのポイントに揺られて、私は感情を煽られました。ムーアは、ブッシュの政策を批判して、「恐れと安心を交互に呼び覚まされた人間は、混乱し、判断力を失う」というようなことを言うのですが、ムーア自身も、映画の中では、観ている人を混乱させ判断力を失わせていきます。9.11の貿易センタービル爆破の映像、イラクの米兵に家族を殺された人の嘆き、米兵の息子を亡くしたアメリカ人の母親らの描写、そして、負傷・死傷したイラク人や米兵の傷跡は観客を緊張させ、動揺させるでしょう。そして、それらの映像の合間に挟まれるブラックユーモアに観客はほっと気持ちを和ませるでしょう。その繰り返しの中で、段々と観客はムーアの思うままに持っていかれ、同時にどんどんスピードアップして矢継ぎ早に送り込まれる資料や証拠の映像に、洗脳されていきます。そして、最終的に、ムーアのいう、反ブッシュの主張に取り込まれていくのです。
 要するに自己啓発セミナーと同じです。ショックと安堵を交互に与えれば、人間は従順になります。もちろん、ブッシュをはじめとする国家も、映像を用いて、同じことを国民に施そうとしました。ですが、より的確で鮮やかな手さばきで、ムーアは情報操作による人心掌握をやってのけたのです。そして、そのやり方は、典型的なハリウッド映画です。音楽と編集の巧みなリードで、いつのまにか観客はヒーロー(主人公)に自分を重ね、悪を暴いたカタルシスを得ます。私自身、この映画をみて、カタルシスを得ました。映画の中で煩悶し、映画の中で解決を得、映画をみる自分とは違う自分を得るという、爽快感です。
 ムーアは、ムーア自身がどう考えているかは知りませんが、真実など追求していません。ムーアの膨大な取材と資料は、より確実にストーリーに引きずり込むための小道具です。観客はムーアと一緒にブッシュという悪者を倒す物語の旅に出かけるのです。私にとっては、『華氏911』は『タイタニック』や『ダイハード』のような物語でした。物語にのめりこみ、感情移入するのです。ただし、私は、『華氏911』を観終わった後、『ET』を観終わった後のように、こちらの世界に帰ってきた気がしました。しかし、アメリカに住んでいれば、別の感覚を持ったでしょう。アメリカに住み、そこで選挙権を持っていれば、『華氏911』の結末はブッシュを落選させることで終わるのです。『華氏911』の世界は、こちらの世界にもつながっているのです。これは、私が、『はだしのゲン』を読んだあとに、それがフィクションであるにも関わらず、現実の世界で、反戦意識を持ってしまうのに似ているかもしれません。
 結局、『華氏911』で提示されている情報や新事実には意味はないし、それが正しいのか間違っているのかにも意味はないと思います。これは、現実に直結させられたメロドラマです。『華氏911』をみて、泣けなかったり笑えなかったとしても、それは『ラストサムライ』で感動できるかどうかの問題と同じくらいの重要性しかありません。多分、この映画の感想は、ハリウッド映画のCMでよくやっている「めちゃめちゃ泣けました」「最高です」という反応か、「ダメ映画」という反応しか求められていないでしょう。
 だからといって、私はこの映画がダメだと思っているわけではありません。ただ、この映画で9.11以降のアメリカという国が行った行為を評価や批判することは、明石家さんま主演の戦争映画で戦時中の日本を評価・批判することのように難しいということです。このような映画が世論を二分するアメリカという国の人々が、自分たちの行為をどのように考えているかの参考にはなっても、アメリカの起こしたこと自体を考えるには向いていないと思います。

家族は肯定されるのか

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040923
という記事を読み、家族制度について再考しました。以下で扱う家族という言葉は、婚姻(血縁)という制度によって作られた家族を指します。

 ここで、野原さんが問題にあげているのは、子育ての問題です。野原さんは、家族制度を重視する考え方は、女性に家庭内労働を過剰に分担させる傾向があることは否定できないが、それでも、子供を育てるという状況には家族は必要だと主張します。なぜなら、現在、子供を育てるためのユニットとしては家族が一番有効だからと言います。だから、子供を産まない自由は認められるべきだが、子供を産む自由も認められるべきだと主張するのです。
 私も、子供を産む/産まないの自由は認められるべきだと思います。私はこの自由には、貨幣と引き換えに行われる賃金労働と、子供を産むことの価値が比べられないことが必要であり、本人がそのどちらを望むときには同じように叶えられ、その優劣を判断されない状況が必要だと思います。そして、子供を産むことと産まないことの価値も比べられず、その優劣がつけられない状況が必要だと思います。
 しかし、現在、その状況が用意されているとは言えず、しばしば子供を産むことが、産まないことより優れているという判断がなされる場合はあります。子供を産む/産まないという権利の自由があったとしても、子供を産む/産まないの間に優劣の判断があれば、自由ではありません。ですから、現状において、子供を産む自由を主張するには、それが産まないことより優れたことだから主張するのではない、ということを明確にしなくてはなりません。
注:野原さんが子供を産むことは産まないことより優れていると主張しているわけではありません。
 そして、子供を育てることに関しても、やはり自由が必要だと思います。子供を家庭で育てる/育てないの自由もやはり与えられるべきではないでしょうか。というのは、子供を育てるのと、逆ともいえる行為、高齢者の介護の問題も家庭にはあるからです。
 高齢者の介護は、しばしば家庭内で行われます。特に痴呆の場合、高齢者は子供と同じように「不定形で不安定で泣き叫ぶしかない存在(存在未満)」(野原)になります。子供は、共同体の秩序を知らず、理解できず、混沌状態にあります。同じように、痴呆の高齢者は、秩序を理解できなくなり、忘れてしまい、混沌状態へ向かっていきます。
 この高齢者の混沌状態と家族制度はどう向き合うのでしょうか。多くの場合、家庭内の介護者(勿論介護者の多くは女性)は、疲弊し、酷い場合は倒れ、困難を抱えることになります。理想的に言えば、その痴呆の高齢者の混沌と向き合い、新たな関係性を築くことが必要なのでしょう。しかしながら、それを全ての家族に要求することはあまりにも難しいことだと思います。
 家族がひととひととの結びつきだということは事実だと思いますが、その結びつきがあるほために、秩序から混沌へ向かう家族を目にすることは、介護する家族にとって、時として何よりも辛いことになります。家族によっては、その混沌を抱え込むこともできるのでしょう。しかし、別の家族にとっては、それは抱えきれない混沌になります。
 現在の福祉行政で提案されているのは、その混沌を家族の外部の人間と共に分かち合うというプランです。ホームヘルパーの派遣やショートステイ、そして介護施設という、家族以外の人間を導入することで、家族の混沌を抱える負担を減らそうというプランです。それは、同時に、家族のひととひととの結びつきを、薄れさせたり、時としては切断することになります。そして、それまで培われたひととひととの結びつきは、解体され、別の形に再構築されることになります。
 ここで、重要なのは、家族の中のみでのひととひととの結びつきと、家族以外との結びつきに優劣の判断をつけるべきではない、ということです。先に子供を産む/産まないという自由に優劣の判断をつけるべきではないように、ひととひととの結びつきが家族/家族以外も含むものの間に優劣をつけるべきではないでしょう。家族のひととひととの結びつきによる混沌との対峙と同じように、家族以外も含んだひととひととの結びつきによる混沌の対峙も、認められなければなりません。
 そして、子供と高齢者を差別するべきでもないでしょう。子供という混沌を家族が抱えきれない場合、子供は家族以外を含むひととひととの結びつきにより育てられるべきでしょう。そのとき、家族のみのひととひととの結びつきで育てられることと、優劣をつけるべきではありません。確かに、子供を家族のみのひととひととの結びつきで育てる自由は認めるべきです。が、そうでない結びつきで育てる自由も認めるべきだと思います。
(こう書くと、まるで育児放棄を推奨しているように読めるかもしれませんが、私が提示している、家族以外を含むひととひととの結びつきも、親の側で用意されるべきものとしています。要するに、親は、育児をすることではなく、子供が育つことのできる環境を用意する義務があるということです。)
 このとき、家族の概念は、ヘーゲルが提示したような、国家(社会)と対立するものではありません。社会とのつながりを持ち続けるゆるやかな共同体、出入りが可能でそれ自体が社会的な共同体が、私の提示している家族の概念です。この点から、私は、家族は、家族以外の共同体と変わらないくらいには重要だけれども、子育てには婚姻(血縁)を前提にした家族が必要だ、という主張には立ち止まる必要を感じています。

追記

 幼児の父親と容疑者の男は、暴走族の先輩・後輩関係だったという噂があります。確かに、暴走族は、先輩・後輩関係が、通常より強いイメージがありますが、だからといって、私の生活に溢れている先輩・後輩関係と無縁だとするのは早計でしょう。

男の絆と栃木幼児誘拐殺害事件

 栃木で幼児2人が虐待され、誘拐され、殺害されました。勿論、そのような行為は許されないし、殺害されたことについて、痛ましいと思います。ただ、一つ、私には、引っかかったことがあります。それは、幼児の父親と、容疑者の男が先輩・後輩の関係であったことです。
 容疑者の男は、幼児の父親に対し、不満があったが、相手が先輩であったため、直接抗議できず、八つ当たりで幼児を虐待したと述べました。一方、幼児の父親も、「自分が先輩であったため、容疑者の男は何も言えず、息子たちに暴力の矛先が向かった」と認めています。そこに、私は違和感を持つのです。
 暴力には快楽が伴います。特に、自分に逆らえない弱者への暴力は、強い快楽を生みます。そして、麻薬のように暴力のサイクルに取り込まれていきます。だから、幼児2人への虐待がエスカレートしていったことは、推測できます。でも、なぜ、幼児の父親に、男は抗議できなかったのか。そして、幼児の父親も、なぜ、男が抗議できなかったという状況説明を受け容れられるのか。
 その理由を、幼児の父親も男も、幼児の父親が先輩であり、男も後輩であったからだと述べています。そして、私が目にする限りのマスメディアもこのことに疑問を持たないようです。しかし、幼児に暴力をふるい、殺害するほどの憤りを、相手にぶつけることをはばかられる理由が、先輩・後輩という関係だというのは、私に引っかかりを覚えさせます。
 先輩と後輩という関係は、昔ほどではなくても、まだ神聖視されています。先輩の言うことは絶対で、そのことが正しかろうと間違っていようと従わなければならない、絶対服従の関係。女は男に従えという考えや、子供は親に従えという考えは、もはやタテマエに近づいています。そして、これからも崩れていくことでしょう。でも、先輩・後輩の関係は、生きています。
 例えば、女性が「男だからって命令しないでよ」といったり、子供が「親だからって俺が思い通りにできると思うなよ」といったりする言葉は、実際にも使われるけれど、後輩が「先輩だからって指図するな」という言葉は、酒の席での冗談以外では、ほとんど使われないでしょう。そして、使った場合、たいてい後輩の側は周囲からも糾弾されるでしょう。
 そして、この先輩・後輩の関係は、女性よりも男性の間で強固なようにみえます。(女性の先輩・後輩の関係は、少し別の要素があります。多分、それは、女性は老若という基準の評価において、若い方が良いとされる風潮がまだ残っているからだと思います。)また、部活・サークルや会社において、男性間の先輩・後輩の服従関係は、しばしば彼ら自身によって望まれるものです。
「お前はわかってくれるよな?」「わかりますっ」
というようなヤオイ小説のようなやり取りをしている男性の顔は、独特のものがあります。
 「所詮、女にはわからない」「女がいると、やりにくい」というような、女性の社会進出への男性側からの反発は、この関係が成立しなくなる、というのにも一因はあるでしょう。そして、女性は男性の共同体に入るときには、この関係の役割分担(先輩・後輩)に自分の身を沿わせるかどうかを迫られることになりがちです。男同士の絆を解体し、新たな男女間の先輩・後輩関係を作るのか、それとも、自分が男性として男同士の絆に参入しようとするのか、という選択です。前者の場合、男性からの反発をかったり、人心を失うことによって失敗するリスクも高いですし、後者の場合、二流の男性として認知されかねません。どちらにしろ、男の絆にとっては女性は不穏分子だとみなされることが多いのです。
 さて、この男の絆は、美化されることもありますが、実際に絶対服従の関係であることは否めません。そして、今回の事件にも、この関係が挟まれていました。幼児を2人殺害してまで、守られた男の絆の服従関係。この2人は、幸か不幸か、母親という女性の不穏分子はおらず、男の絆は純化しています。そこまでして、守られた絆とは、いったいどれほどの価値をもつのでしょうか。
 男女の服従関係があるべし、と言われた時代に、女性運動家やフェミニストは、その関係に正当性がなく、撤廃する必要があると主張しました。(そして、今も主張しています。)そこで、明らかになったのは、関係は、現に成立しているというのが根拠であって、根拠があって成立しているのではないということでした。女性が男性に服従しなければらない、というのは、男性が主導権を握る関係があるので、女性が服従しているのであって、男性が優れているから女性が服従しているのではない、ということです。これは、男女の関係に留まる問題ではありません。
 男の絆も、絆があるから、後輩が先輩に服従するのです。その根拠はありません。容疑者の男が、幼児の父親に抗議できなかったのも、根拠はないでしょう。ただ、2人は先輩・後輩の関係だったから、抗議できなったのです。もし、その関係が壊され、容疑者の男が幼児の父親に直接抗議できていたら…私は、当事者でもないし、詳しい事情も知りません。だから、こんな妄想に意味はないでしょう。それでも、もし…