家族の物語

 私は今、三つの家族の物語を少し離れてみています。一つは息子の物語。もう一つは娘の物語。最後は父親の物語。三人とも成人しています。
 息子は両親から自立したいがために、両親の過剰な愛を振り払おうと家を出ることを決意し、両親と対立します。
 娘は両親に愛されずに育ったと感じていて、特に嫌いな母と自分が似てきたことを嫌悪し苦しみ、自分の「母」性を否定します。
 父親は、それまで家族制度を批判的に捉えていたのに、息子が生まれた事により祝福され、父となる事に違和感を覚えつつ受け入れようとしています。

 これは、どれも私の物語ではありません。家族の物語には他者は入ることが出来ないのでしょうか。私はただ傍観し、彼/彼女らの語る言葉に耳を傾けるだけです。ただ、どの物語も「家族制度」に引っかからずには展開できません。息子は両親を否定します。娘は自分に引き継がれた両親の痕跡を否定します。父親は、生まれた子どもの名前を聞かれ続け、その父の座に決定付けられます。

 過剰な愛、愛の不足、愛の誕生。そのユニットに生まれたからには愛さなければならない/愛されなければならないという繰り返される言説。三つの物語を聞かされるたびに私は家族愛というのはこうも強いものかと驚きます。まるで息子が出ていかないことが当然のように、まるで娘が自分の言うとおりにするのが当然のように、父が息子の名前で頭がいっぱいだと言うのが当然のように、させていることが家族愛の言説なのでしょうか。

 その物語の中心人物が家族愛をどう捉えているのかは私は知りえません。もしかすれば、とても肯定的に捉えているかもしれません。ただ、傍観者としてその物語の繰り広げられているのをみると、それに参加する事に私の足は止まってしまいます。
 例えば、息子に両親の元にとどまれといったり、娘に両親に似る事はむしろよいことだといったり、父親に無邪気に名前を聞いたり、そんなことは私にはできないのです。
 それは私が何か、家族愛に参加できない足かせや生育歴があるのかもしれません。けれど、私はなぜか羨ましくないのです。制度としての家族。少子化を促しているのは私のような、この非家族的な人間が増えているからかもしれません。

 昔、吉本隆明は「共同幻想より対幻想のほうが強い」と言いました。それは後々、上野千鶴子ら一部のフェミニストに言及される事になりますが、今では常識のように浸透しています。恋愛・婚姻に対して、違和感を持つ人間は、一時のウィメンズ・リブやフェミニズムの動きがあったころより、むしろ減っているのかもしれません。
 では、その運動を通過した息子や娘や父親はどのように物語を綴ればいいのでしょう。もはや「家族とは〜」という常識がハリボテだった事を知った人間はどうやって家族を維持すればよいのでしょう。
 吉本隆明の娘、吉本ばななは、子を孕み、エッセイを出版しました。その中に父の隆明は登場しません。もしかすると、吉本家は公開されないだけで、隆明→ばなな→その子は強く結ばれているのかもしれません。でも、それは既に宣言されたり、表立って推奨されるものではなくなっています。

 子はかすがいと言います。では、かすがいが、自立した人間になって成長すればどうなるのか。「私はあなたたちを結ぶ道具ではない」と子どもが言った時、その親はどうなるのか。そしてその子どもがさらに親になるとどうなるのか。少子化が問題だとすれば、そのことを論じなければ、要するに対幻想以降の、家族に対する思想体系が生まれていないことを問題にしなければならないと思うのです。