四回転ジャンプでは越境できない

荒川静香が女子フィギュアスケートで金メダルをとったことは喜ばしいと思います。ですが、日の丸を持って体育館に集合した地元の人たちばかりがテレビに映ることに違和感を持ちます。荒川を支えたのは、高いチケットを購入して、全国津々浦々を応援してまわった決して国旗を振らないフィギュアファンではないのでしょうか。(フィギュアスケートは日本人でも、国外の選手のファンであることが多い競技です。日本ではロシアやフランスの選手が人気。)四年に一度しかない五輪で大騒ぎする「国民」ではないはずです。

確かに、普段、フィギュアスケートを見ない人にとっては、連日報道される日本人選手に注目するのは当然だと思います。そういって納得しようと思ったのですが、元フィギュアスケーター渡部絵美が「(スルツカヤがジャンプで転倒したとき)国民はみんなガッツポーズをしたと思います」と発言したときにはさすがに呆れました。スルツカヤも荒川もベテラン選手です。フィギュアファンなら、どちらの選手の滑りも見てきたはずですし、スルツカヤのファンだっていないわけではありません。それが、「国民」という枠にはめられた途端に、日本人全員が荒川を応援していたような発言がまかり通ります。続けて渡部は「フィギュアやってて良かった」と言いましたが、このような選手がいるから、良い成績が残せなかったのではないかと疑います。(それに比べて荒川のクールさは際だって見えます。)

新採点方式が分かりにくいという声もあがっているようです。ジャンプで転倒したコーエンやスルツカヤより村主の順位が低かったことへの不満もあがっています。新採点方式は、各要素に細かく点数が分けられ、ジャンプなどの技術点に偏らないように配慮されています。(しかし、報道はされていますが新採点方式はジャンプに重きをおいているという批判も同時に起きています。)ですので、芸術点やプログラムの構成で順位が変わってくるので、観客側にはわかりにくいかもしれません。

わかりにくさとナショナリズムについて太田省吾は書きます。

現在の日本の文化(政治的思考もふくめ)は<わかりやすさ>が要請され、あるいは強制されている性状にあり、<わからない>ものは忌避され、劣等にランクされる。

(太田省吾「<ナショナル>なものへの疑い」『舞台芸術07』京都造形大舞台芸術センター、2004年、5ページ)

フィギュアスケートにはジャンプ、ステップ、スピンなどの各技術や、その組み合わせによって難易度が変わってきます。また表現力といった抽象的な言葉も使われます。必ずしも、観客が素晴らしいと思った演技が上位に入るとは限りません。ですから、フィギュアファンはつねにジャッジ(審査員)の採点と、自分の持つ感想のズレに耐えながら応援しなければなりません。その中で、自分の好みのスタイルの選手を選び、花束を投げるのです。それに比べれば、実況をみて「日本」と叫ぶのはわかりやすい構図です。どこかいいのではなく、成績の良い日本人として応援すること。国旗を振る「国民」はただ、自国に高い評価がつくことを望めばいいのです。

日本に生まれた私は、民族独立戦を闘っているような人々に抱かれているような、<よきナショナリズム>を知らない。<ナショナルなもの>をほとんど<思考停止点>をそこに設定することによって得られる<わかりやすい><自信ありげな>態度としてしか感じられず、それへの気味悪さと不信を感じてきた。

(太田、同上、6ページ)

フィギュアファンは常に苦悩に満ちています。早い引退(フィギュアでは20代でほとんどの選手がプロに転向します)、度重なる故障、ジャッジとの方針の相違。その限られた枠の中で得られる自由こそが、フィギュアスケートの面白さです。私もまた、ナショナリズムとは切り離せません。私も「国民」であるに違いはありません。それでも、私は荒川や村主や安藤だけではなく、スルツカヤやコーエンの応援をする自由があるのです。国旗を振る前に私は誰を応援したいのか。自問自答を避けることはしたくありません。

追記:他の記事を見て回ると、はてなに関してはスルツカヤ他、外国人選手を応援する声が多かったように思いました。元々、スルツカヤは人気の高いベテラン選手ですから、当然かもしれませんが。