見られたい身体

電車にゴスロリ若い女の子三人組が乗ってきました。私は興味を持って、ゴスロリで有名なブランド店BATSUを訪れたのですが、大体、スカート一枚で2万円くらいでした。三人組はそれぞれ、黒い制服スカート、紋章入りネクタイ、編み上げのブーツ、髑髏のイラスト入り鞄などを全身に隙無く身に纏っていました。思わず注視して、総額を計算しそうになりましたが、ジロジロ見るとは失礼だと思い目をそらしました。すると、その視線の先にはディオールモノグラム入りのバッグを持ったお姉さんがいるのでした。私はまた値段を計算していました。

ゴスロリのコスチュームも、ブランドのモノグラムも記号です。どちらも、その服装は属性を示します。この属性化をどんな持ち物も免れません。ジーンズであれ、ニットであれ、シャツであれ、何らかの属性を意味します。制服やスーツはそれを特化した物だと言えるでしょう。職業や学校名を特定する、これらの衣服による分断、それを支持するしないに関わらず、着ることを強制されます。

衣服というのは個性や自己表現だという主張もありますが、既製服を着ている限り、誰かと同じ服を着ることになります。また、デザイナーの意図を組むことになり、「自分自身の表現」というには無理があるでしょう。衣服は、単なる属性のチョイスにすぎません。カジュアルがいいとか、コンサバがいいとか、そういったおおまかな仕分けに、自らをはめ込むのです。これは社会への順応であり、「普通」と言われるために必要な選択です。

身体論を経由したフェミニズムでは女性の「見られる身体」が言及されます。一昔前は、よくミスコンがやり玉にあげられていました。女性は他者(特に男性)に見られるという価値観に縛られているという批判です。ですが、ここからこぼれおちているのは、「見られたい身体」ではないかと思います。

この「見られたい身体」とは、「劣情を抱かせたい身体」とは違います。<私>が自分の理想とするイメージを表現したものです。それは必ずしも他者が見る<私>とは一致しません。例えば、痩せていたり太っていたり、背が高かったり低かったり、そういった肉体の特徴と、衣服の持つ属性に、ズレができることもある身体です。この身体は絶えず他者の視線にさらされます。その結果「似合っている」として属性との結びつきを強化させたり、「似合っていない」として修正を迫られたりします。または、他者の評価を拒否することで、自分の主張を作り上げたりします。

この「見られたい身体」は男性にも当てはまります。特に近年では、若い男性の間では、「自分がどう見られるか」を意識させるような場面が増え、他者の視線にさらされることが少しずつ増えてきました。それでも、「見たい身体」、つまり自分が見られるのではなく、あくまでも見る主体だと信じている男性はいます。私が顕著だと思うのは、電車でスポーツ新聞を読む男性です。彼らは女性の身体を見ています。その自分が見られていることは、意識にのぼりません。また、のぼったとしても重要ではありません。

ある時期、電車内で化粧直しをする女性への批判がなされました。自分が「見られる主体」であることを放棄しているという批判です。このときに私が持つ違和感は、ジェンダー非対称性から発せられたのは言うまでもありません。