家族は肯定されるのか

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040923
という記事を読み、家族制度について再考しました。以下で扱う家族という言葉は、婚姻(血縁)という制度によって作られた家族を指します。

 ここで、野原さんが問題にあげているのは、子育ての問題です。野原さんは、家族制度を重視する考え方は、女性に家庭内労働を過剰に分担させる傾向があることは否定できないが、それでも、子供を育てるという状況には家族は必要だと主張します。なぜなら、現在、子供を育てるためのユニットとしては家族が一番有効だからと言います。だから、子供を産まない自由は認められるべきだが、子供を産む自由も認められるべきだと主張するのです。
 私も、子供を産む/産まないの自由は認められるべきだと思います。私はこの自由には、貨幣と引き換えに行われる賃金労働と、子供を産むことの価値が比べられないことが必要であり、本人がそのどちらを望むときには同じように叶えられ、その優劣を判断されない状況が必要だと思います。そして、子供を産むことと産まないことの価値も比べられず、その優劣がつけられない状況が必要だと思います。
 しかし、現在、その状況が用意されているとは言えず、しばしば子供を産むことが、産まないことより優れているという判断がなされる場合はあります。子供を産む/産まないという権利の自由があったとしても、子供を産む/産まないの間に優劣の判断があれば、自由ではありません。ですから、現状において、子供を産む自由を主張するには、それが産まないことより優れたことだから主張するのではない、ということを明確にしなくてはなりません。
注:野原さんが子供を産むことは産まないことより優れていると主張しているわけではありません。
 そして、子供を育てることに関しても、やはり自由が必要だと思います。子供を家庭で育てる/育てないの自由もやはり与えられるべきではないでしょうか。というのは、子供を育てるのと、逆ともいえる行為、高齢者の介護の問題も家庭にはあるからです。
 高齢者の介護は、しばしば家庭内で行われます。特に痴呆の場合、高齢者は子供と同じように「不定形で不安定で泣き叫ぶしかない存在(存在未満)」(野原)になります。子供は、共同体の秩序を知らず、理解できず、混沌状態にあります。同じように、痴呆の高齢者は、秩序を理解できなくなり、忘れてしまい、混沌状態へ向かっていきます。
 この高齢者の混沌状態と家族制度はどう向き合うのでしょうか。多くの場合、家庭内の介護者(勿論介護者の多くは女性)は、疲弊し、酷い場合は倒れ、困難を抱えることになります。理想的に言えば、その痴呆の高齢者の混沌と向き合い、新たな関係性を築くことが必要なのでしょう。しかしながら、それを全ての家族に要求することはあまりにも難しいことだと思います。
 家族がひととひととの結びつきだということは事実だと思いますが、その結びつきがあるほために、秩序から混沌へ向かう家族を目にすることは、介護する家族にとって、時として何よりも辛いことになります。家族によっては、その混沌を抱え込むこともできるのでしょう。しかし、別の家族にとっては、それは抱えきれない混沌になります。
 現在の福祉行政で提案されているのは、その混沌を家族の外部の人間と共に分かち合うというプランです。ホームヘルパーの派遣やショートステイ、そして介護施設という、家族以外の人間を導入することで、家族の混沌を抱える負担を減らそうというプランです。それは、同時に、家族のひととひととの結びつきを、薄れさせたり、時としては切断することになります。そして、それまで培われたひととひととの結びつきは、解体され、別の形に再構築されることになります。
 ここで、重要なのは、家族の中のみでのひととひととの結びつきと、家族以外との結びつきに優劣の判断をつけるべきではない、ということです。先に子供を産む/産まないという自由に優劣の判断をつけるべきではないように、ひととひととの結びつきが家族/家族以外も含むものの間に優劣をつけるべきではないでしょう。家族のひととひととの結びつきによる混沌との対峙と同じように、家族以外も含んだひととひととの結びつきによる混沌の対峙も、認められなければなりません。
 そして、子供と高齢者を差別するべきでもないでしょう。子供という混沌を家族が抱えきれない場合、子供は家族以外を含むひととひととの結びつきにより育てられるべきでしょう。そのとき、家族のみのひととひととの結びつきで育てられることと、優劣をつけるべきではありません。確かに、子供を家族のみのひととひととの結びつきで育てる自由は認めるべきです。が、そうでない結びつきで育てる自由も認めるべきだと思います。
(こう書くと、まるで育児放棄を推奨しているように読めるかもしれませんが、私が提示している、家族以外を含むひととひととの結びつきも、親の側で用意されるべきものとしています。要するに、親は、育児をすることではなく、子供が育つことのできる環境を用意する義務があるということです。)
 このとき、家族の概念は、ヘーゲルが提示したような、国家(社会)と対立するものではありません。社会とのつながりを持ち続けるゆるやかな共同体、出入りが可能でそれ自体が社会的な共同体が、私の提示している家族の概念です。この点から、私は、家族は、家族以外の共同体と変わらないくらいには重要だけれども、子育てには婚姻(血縁)を前提にした家族が必要だ、という主張には立ち止まる必要を感じています。