『華氏911』というメロドラマ

 遅ればせながら、『華氏911』を観に行きました。マイケル・ムーアに乗せられてたまるものかと、斜に構えていたのですが、うっかり途中で泣いたり笑ったりしてしまいました。次々と仕掛けられるミエミエの泣きと笑いのポイントに揺られて、私は感情を煽られました。ムーアは、ブッシュの政策を批判して、「恐れと安心を交互に呼び覚まされた人間は、混乱し、判断力を失う」というようなことを言うのですが、ムーア自身も、映画の中では、観ている人を混乱させ判断力を失わせていきます。9.11の貿易センタービル爆破の映像、イラクの米兵に家族を殺された人の嘆き、米兵の息子を亡くしたアメリカ人の母親らの描写、そして、負傷・死傷したイラク人や米兵の傷跡は観客を緊張させ、動揺させるでしょう。そして、それらの映像の合間に挟まれるブラックユーモアに観客はほっと気持ちを和ませるでしょう。その繰り返しの中で、段々と観客はムーアの思うままに持っていかれ、同時にどんどんスピードアップして矢継ぎ早に送り込まれる資料や証拠の映像に、洗脳されていきます。そして、最終的に、ムーアのいう、反ブッシュの主張に取り込まれていくのです。
 要するに自己啓発セミナーと同じです。ショックと安堵を交互に与えれば、人間は従順になります。もちろん、ブッシュをはじめとする国家も、映像を用いて、同じことを国民に施そうとしました。ですが、より的確で鮮やかな手さばきで、ムーアは情報操作による人心掌握をやってのけたのです。そして、そのやり方は、典型的なハリウッド映画です。音楽と編集の巧みなリードで、いつのまにか観客はヒーロー(主人公)に自分を重ね、悪を暴いたカタルシスを得ます。私自身、この映画をみて、カタルシスを得ました。映画の中で煩悶し、映画の中で解決を得、映画をみる自分とは違う自分を得るという、爽快感です。
 ムーアは、ムーア自身がどう考えているかは知りませんが、真実など追求していません。ムーアの膨大な取材と資料は、より確実にストーリーに引きずり込むための小道具です。観客はムーアと一緒にブッシュという悪者を倒す物語の旅に出かけるのです。私にとっては、『華氏911』は『タイタニック』や『ダイハード』のような物語でした。物語にのめりこみ、感情移入するのです。ただし、私は、『華氏911』を観終わった後、『ET』を観終わった後のように、こちらの世界に帰ってきた気がしました。しかし、アメリカに住んでいれば、別の感覚を持ったでしょう。アメリカに住み、そこで選挙権を持っていれば、『華氏911』の結末はブッシュを落選させることで終わるのです。『華氏911』の世界は、こちらの世界にもつながっているのです。これは、私が、『はだしのゲン』を読んだあとに、それがフィクションであるにも関わらず、現実の世界で、反戦意識を持ってしまうのに似ているかもしれません。
 結局、『華氏911』で提示されている情報や新事実には意味はないし、それが正しいのか間違っているのかにも意味はないと思います。これは、現実に直結させられたメロドラマです。『華氏911』をみて、泣けなかったり笑えなかったとしても、それは『ラストサムライ』で感動できるかどうかの問題と同じくらいの重要性しかありません。多分、この映画の感想は、ハリウッド映画のCMでよくやっている「めちゃめちゃ泣けました」「最高です」という反応か、「ダメ映画」という反応しか求められていないでしょう。
 だからといって、私はこの映画がダメだと思っているわけではありません。ただ、この映画で9.11以降のアメリカという国が行った行為を評価や批判することは、明石家さんま主演の戦争映画で戦時中の日本を評価・批判することのように難しいということです。このような映画が世論を二分するアメリカという国の人々が、自分たちの行為をどのように考えているかの参考にはなっても、アメリカの起こしたこと自体を考えるには向いていないと思います。