殴られて笑うのはそれが痛いとわからないから

 gaikichiさんとやり取りをしました。きっかけは、gaikichiさんの、「戦争教育という残酷見世物」という記事です。

http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20041027

要約すれば、戦争というのは人間の残酷性がもっとも鮮明に現れるので、その人間の残酷性を、子供のうちから教え込むために、戦争教育を残酷見世物として扱うという議論です。私が、その中で、反応したのは、次の部分です。

こんだけ世が戦後民主主義的やさしさで飽和し、すぐACだDVだ傷ついた傷つけられたと言うような無痛社会(この辺、ずばり今出てる『サイゾー』のM2対談でも触れられてたが、宮台真司宮崎哲弥両人、最近すっかり「(人間が成長するためには)やっぱり社会には抑圧も必要」って論者になったなあ)となってはなおのこと、わたしは、公教育で「世界の残酷さ」「人間の残虐性」を、しょせん子供心には安手のホラーとしてしか受け取られなくても、一度はちょっとくらい刷り込んでおくのは無意義ではないと思っている。

このなかの、「無痛社会」に反応し、次のようにコメントしました。

「無痛社会だ」という点に関しては、「ACやDVだ」と実際に傷つけた/傷つけられた人がいることを、「ACやDVだ言っている人が居る」と他者の物語化することこそが、「無痛社会」なんではないでしょうか?
残酷教育なるものも、教育される側には、人間の残虐さを学ぶという有痛の行為であっても、教育させる側には「これは所詮安手のホラーなんだ」という無痛の行為になります。その結果、教育する側には戦争を語ることが無痛化されることになるんではないかな、と感じました。
同じように、「ACやDVの人がいる」ことは戦後民主主義のやさしさのなかで生み出される言説なんだ、とすることは、目の前で起きているかもしれない暴力をまさに無痛化して、語ろうとしている欲望を感じます。

それに対するgaikichiさんのコメントが以下のものです。

ここでは無痛社会という言葉の意味が「他者の痛みに鈍感になってる社会」という意味に取れるようですが、社会全般がどうかはともかく、なるほど、わたし個人に関する限り、たぶん世の平均値よりガサツな人間なので、うっかり単直に、少々の苦痛ぐらいも我慢しろよ、とか、自分が我慢できるんだから他の人間も我慢できるはずだ、とかいう考え方をしがちな人間なのは、ひとつ率直に認めておきます。
まず大前提として、そりゃわたしも、本当に不当に虐待されている子供や女性の人権は守られるべきだとは考えています。ただ、『AERA』の記事とかで毎度やれACだDVだとかそんな話ばっか書いてるのには、「オイ今や他に大状況的な問題はもうないのか?」とさすがにうんざりしているわけで。
なぜかというと、ひとつには、児童虐待とか家庭内暴力なんて昔からあった、何を今さら、とか思うからです。
ただ、かつては、そんなのも一面で日常の風景として受容して受け流せるような世間のクッションとか逃げ場(例えば、両親が乱暴でもおじいちゃんおばあちゃんが助けてくれるとか、隣近所の地域社会とか)があったが、都市化と核家族化でそれが失われて、人間が個々バラバラになって、結局、個々の「傷ついた」「傷つけられた」ばかりが浮上してきた、ということではないかと、で、それがなんか気持悪い、という次第。

これに対し、コメントをしようとしたのですが、長くなりそうだったので、こちらで記事にしました。
 さて、私が気になったのは、gaikichiさんのコメントの後半部分です。

かつては、そんなのも一面で日常の風景として受容して受け流せるような世間のクッションとか逃げ場(例えば、両親が乱暴でもおじいちゃんおばあちゃんが助けてくれるとか、隣近所の地域社会とか)があったが、都市化と核家族化でそれが失われて、人間が個々バラバラになって、結局、個々の「傷ついた」「傷つけられた」ばかりが浮上してきた、ということではないか

このような論点は、gaikichiさんだけが提示するものではなく、通俗的によく言われている部分です。が、しかし、このような暴力を受け止めるような、(地域)共同体とは、本当にあったのでしょうか。少なくとも、私はそのようなケーススタディを知りません。私が、以前テレビで見た番組に、おばあさんが出演していました。(残念ながら、番組名や、見た日時は覚えていません。)
 彼女は、夫が酒乱でギャンブル狂でした。彼女は、離婚し、役所に生活保護を求めましたが、当時は公的機関での保護は得られませんでした。そこで、地を這うような貧乏な生活をしていました。でも、彼女は、それを当然だと言い切っていました。「だって、自分の勝手で結婚して、その相手が勝手に借金したものを、役所が面倒みてくれるわけもないですよね」というようなことを言っていました。潔い、強い、傍から見ていれば敬服するしかない言い分です。
 今なら、彼女は離婚し、生活保護を受け、支援機関の援助が得られるでしょう。もしかするとDVで相手の男を訴え、慰謝料を請求できるかもしれません。私は、彼女の生き方より、後者を希望します。もしかすると、彼女のほうが立派な生き方かもしれない。でも、少なくとも私は、もし彼女の境遇におかれても、彼女のような考え方はできないと思うのです。多分、私は、私の勝手で結婚して、相手が勝手に借金しても、そこから助け出すための補助を公的機関に求めると思います。
 それは、彼女の状況に陥るのは、痛みを感じることだ、と判断する余裕があるからです。もし、彼女自身が、その状況で「痛い」と感じていれば生きていけなかったでしょう。「これは痛くないんだ」と信じ続けて、彼女は生き延びました。そのことを私は賞賛するし、敬服します。でも、今の状況にいる私はそれを「痛い」ことだと認識してしまうのです。
 それは、私がその状況におかれたときに、痛みを受け止めるクッションのような(地域)共同体がないと思っているからでしょうか。私はそうは考えません。私は「痛い」という認識は、社会的に受け容れられるプロセスがなければ、持つことが難しい認識だと考えています。「それは痛いことなんだよ」と周りが言って、初めて「これは痛いんだ」と認識できる、そのような痛みのプロセスがあるということです。

 私は、gaikichiさんの「児童虐待とか家庭内暴力なんて昔からあった、何を今さら、とか思う」という点には賛同します。私も、児童虐待家庭内暴力も、今になって出てきた問題ではないと、考えています。では、なぜ、今こんなに問題化されているのか。その理由に、私は(地域)「共同体」の不在ではなく、やっと児童虐待家庭内暴力の「痛み」の認識されたことだと考えているのです。
 その「痛み」を認識することがいいのか、悪いのか、それは、加害の場に立つのか、被害の場に立つのかによって変わると思います。「痛みを与えている」のか「痛みを与えられているのか」という違いはです。一見、「痛みを与えられている」側が過剰に「痛み」を認識しようとするかのように思われますが、おそらく実際は、「痛みを与えられている」側は認識を避けるでしょう。なぜなら、「痛い」ことを知っているならば、その状況を変革しなければならないからです。私たちは「痛い」ことを知る前は、「痛み」を無視できますが、「痛い」と知ってしまったら、「痛み」を無視するように我慢することはできても、知る前と同じではいられないのです。逆に、「痛みを与える」側が積極的に「痛み」を認識しようとするかもしれません。その「痛み」を与えられる側が「痛い」と感じないように策略をめぐらすためです。「痛みを与える」側が「それは痛くないのだ」と主張する、そういう風景は日常的なものです。

 島田伸介の事件についての記事を読みました。

http://shibuya.txt-nifty.com/blog/2004/11/post.html

彼女は島田の起こした事件は、男性から女性への暴力であり、その根源には女性への性差別があるのだと述べます。そして、彼女は、それは「お笑い界」が特別に男女差別が激しいわけではないといいます。

「お笑い界は感覚がマヒしている」という言葉は正しくない。「オトコ界は感覚がマヒしている」と言うべきなのだ。「お笑いの世界は……」という時、人は自分の世界のことを棚にあげている。「まったく芸人はしょうがないね」なんて言ってりゃ、自分のしょうがなさに目をむけなくて済む。

 
ここでは、ジェンダーの非対称性については言及しません。だから、ここで、私が読みたいのは、「自分のしょうがなさ」に目をむけなくて済むという部分です。問題は、「本当に不当に虐待されている子供や女性の人権」(gaikichi)ではなくて、本当に不当に虐待されている子供や女性などどこにもおらず、今、ここで起きている(かもしれない)虐待に自分が関与している(かもしれない)可能性の部分です。
 なぜ「『AERA』の記事とかで毎度やれACだDVだとかそんな話ばっか書いてるのには、「オイ今や他に大状況的な問題はもうないのか?」とさすがにうんざりしている」(gaikichi)のか。それは、gaikichiさんが、自分はDVにもACにも関わりはないと信じられるその素朴ともとれる立場に身をおいているからではないのか、と私は思うのです。「本当に不当」かどうかはわからないけれど、今、暴力の行使者、または受容者になっているのではないか、という疑念を持つ必要はない、というその判断こそが、「無痛化」ではないか、と私は考えているのです。

 私が指す「無痛化」とは、問題と自分を切り離す行為、つまり自分の暴力性と暴力を切り離す行為のことを指しているのです。自分が「痛みを与える」側に与していても、あれは「痛み」ではないというのが、「無痛化」です。そして、それに乗じて、「痛みを与えられている」側も、これは「痛み」ではないというのが「無痛化」です。これは何の構造かというと、DVの構造です。DVとは、「痛みを与える側」が「痛みを与えられる」側のために(「お前のために」)殴ります。快感の伴わない(正確に言えば、快感が認識されない)SMプレイです。
 では、「無痛化」のきわみであるDVに痛みを与える方法とは何か。それは、DVカップルを切り離し、殴る・殴られるという連鎖をやめさせることです。第三者によって、(もしくは自らの手によって、)DVカップルが解体されることです。DVが解体されたとき、殴ること・殴られることが「痛い」と認識され、「痛み」が認識されるのです。そのとき、DVの連鎖は終わります。だからDVを問題化することへの欲望が、「無痛化」への欲望ではなく、DVを問題化することを避けようとする(DV放置する)ことへの欲望が、「無痛化」への欲望だといいたいのです。
 戦争についても、同じことを私は考えています。戦争とは語りえない暴力です。それをどう語るのか、というのには大きな問題があります。しかし、それを安手のホラーの残酷物語として見せようとする欲望、それは戦争を「無痛化」することへの欲望ではないでしょうか。問題は、ホラーとして受け止める子供ではありません。戦争を自分と切り離す、つまり、自分の暴力性と切り離そうとする欲望こそが、「無痛化」への欲望であり、私はそれを危惧しているのです。