イラク邦人人質事件(詩的日記)

 また、イラクで人質事件が起きました。殆ど、ニュースも速報もみていません。耳を塞いでできるだけ聞かないようにしています。
 前の事件もそうですが、私は過剰に人質になった日本人に感情移入してしまいます。それは、無駄で意味のない過剰さです。イラクで死ぬイラク人とも米国人とも韓国人ともイタリア人とも違う感情移入。それに、名前をつけるのは、私の脆弱なナショナリズムです。右からは偽善と呼ばれ左からは人種差別だといわれるような種類のナショナリズム
 人質の人となりが細かく報道されます。名前、性別、年齢、肩書き、趣味、イラクに入った動機、そのような彼/彼女についての詳細が明かされます。その内容はどうでもいいのです。崇高な理念を持ったジャーナリスト、愛に溢れたボランティア、まっすぐな目をした少年、そして、興味本位で遠足気分と揶揄される今回の人質。彼らにつけられたキャッチコピーの内容ではなく、それらのキャッチコピーがあることが私を動揺させるのです。
 その人が、言うまでもなく存在したこと。今、命の危険にさらされているということ。今、まさに死んでいくのかもしれないこと。その人が存在することをアリアリとつきつけられて、私は動揺するのです。彼らに対する評価ではなく、彼らが死ぬかもしれない、そのことしか私にはみえなくなるのです。人が死ぬ、私の知らない人ではあるけれど、一人の人が死んでいく。
 イラク人、米国人、韓国人、イタリア人、その他の人々が殺されるときにも、彼らの詳細なプロフィールが知らされれば、きっと私は彼らにも感情移入するでしょう。でも、ここは日本で、日本人だから、こんなに詳細に彼らのことは報道されてしまう。だから、私は脆弱なナショナリズムを少しでも抑え付けるために、彼らの報道に耳を塞ぎます。
 今日こそ東京事変の歌詞が耳にささる日はないよ。
「当事者を回避している/興味が湧いたって/据え膳の完成を待って/何とも思わない振りで笑う」
東京事変群青日和」)