ウィラブダンスフェスティバル2004 京都プログラム

http://www.pan-kyoto.com/ac1928/info2004/info1608.html

 8月17日(火)アートコンプレックス、ユーモアダンスAプログラム(前売り2500円)

 東京と京都の二箇所で行われたダンスフェスです。メインはレニー・ハリスのストリートダンスで、同時に若手による20分の作品をいくつかのユーモアダンスと、映像の上映によるダンスinシネマも公開されます。私が観に行ったのは、京都で行われたユーモアダンスのうちの、Aプログラムにあたります。四団体が公演しました。以下、感想を羅列します。

まことクラブ「ニッポニア・ニッポン
 サラリーマンの伝票の押し付け合いをダンス風に振り付けしたもの、能の足摺に似たステップ、そしてサラリーマンと体操着の集団のダンスを、短いシーンで繋いだ作品です。会場の反応は、そこそこ良かったようですが、私は観るに耐えませんでした。まるで、小劇場系の劇団の芝居を、誇張したようなわざとらしいサラリーマンの身ぶりは、観ていて恥ずかしかったです。さらに、流れてくる音楽がエリック・サティ。どうしようもないです。
 エリック・サティといえば、太田省吾の沈黙劇「水の駅」です。この作品は、サティを流しながら、スローモーションで蛇口から流れる水を飲む人々を、演じるというもので、太田省吾の代表作です。この作品と「ニッポニア・ニッポン」の大きな違いは、密度と役者の存在感です。太田が後述しているように、彼の沈黙劇は台詞がないわけではなく、口に出さないだけです。ギリギリまで言語表現を押し殺した状態での沈黙は、高い密度を保っていました。また、この作品にあらわれる役者は、皆、気違いじみた存在感を持っていました。彼らは、表現を放出するのではなく、抑圧することによって、作品を生み出したのです。
 まことクラブが、この「水の駅」を意識したかどうかはわかりませんが、「ニッポニア・ニッポン」は密度も低く、軽薄でした。もしかすると、「ニッポニア・ニッポン」はコントのようなダンスを目指したのかもしれません。そうだするならば、もっと友近を研究するべきだと思います。お笑いを舐めてはいけない。

チェルフィッチュ「クーラー」
 オフィスの片隅での、クーラーにまつわる男性社員と女性社員の会話と身ぶりを作品にしたものです。会話の内容は、女性社員がクーラーの設定温度が低すぎると主張し、男性社員はその相手をしている、というもので、喋り方もつまりつまりしながら、早口でダラダラと続くもので、特に意味はありません。身ぶりは、腕をひねったり、足をくねらせたりするだけで、動きはあるのですが、日常的に使われる範囲のものが多かったです。バックには壮大なクラシック音楽がかかっています。会話と身ぶりは、いくつかのフレーズにわけられ、音楽のように、反復や変奏が行われます。
 この作品は、いかに喋り言葉を音楽として捉え、身ぶりをダンスとして捉えるか、という点がおもしろかったです。いつのまにか、相槌は、パーカッションのように一定のリズムで行われていたり、反復される台詞がテーマのフレーズになっていたりして、ダンスのように見えてきます。この実験は、興味深いものでした。しかし、少し、20分というのは長く感じました。これならば、10分でも十分だったのではないかと思います。方法論のアイデアとしてはおもしろいのですが、見せ方としては、まだ改良の余地があると思います。

ズンチャッチャ「ラムネ」
 夏休みがテーマで、女性のダンサーが集団で踊る作品です。一言でいうならば、中学生の創作ダンスです。彼女たちが10代前半ならばもっと楽しめたかもしれませんが、1996年に結成してから、未だにこのダンスだというのは、酷いです。救いは、ダンサーがクラシックバレエか、それに順ずる西洋ダンスの訓練をしていたらしいことです。動き自体は、不快ではありませんでした。問題は振り付けです。

北村成美「ラベンダー」
 女性のソロで、黒のロングドレスを着て楚々と踊っていた女性が、ドレスを脱ぎ捨て、紫色の派手なブラジャーとパンツで激しく踊ります。客席にも上がりこみ、アピールしていました。
 会場は一部で盛り上がっていたようですが、私はあまり興味を持ちませんでした。例えば、なぜ、脱ぐのか。女性はよく鍛えた腹筋をしていましたが、色気があるわけでもなく、スタイルがいいわけでもありません。一つ一つの行為に、なんの面白みもありませんでした。なぜ、この行為を、ここで行うのか、という突き詰めかたがみえませんでした。

 以上の四作品でした。心の底から観に来たことを後悔しました。作品が未熟だ、というよりも、全体的にヌルさが漂っているのが不快でした。観客も身内が多かったらしく、何人もの人がグループできていました。私がダンスで求めるのは、突出した何かです。「ずば抜けて綺麗」「ずば抜けて技術がある」「ずば抜けて体がなまめかしい」「ずば抜けて存在感がある」そういった人々が、変なことや意味のないことをすれば、確かに、魅力的な作品になるでしょう。しかし、普通の人が、変なことや意味のないことをしても、それは普通に変なことや意味のないことで終わってしまいます。 それはつまらない芸人が客いじりをしても、客席は一層冷え固まるのと同じことです。

 にしても、ダンスってこんなにはずれが多いんでしょうか…?ちょっと悲しい。