酒井順子『負け犬の遠吠え』

 この本で取り上げられているのは、「負け犬」と呼ばれる、30代、独身、子無しの女性です。どんなに美人で仕事が出来ようとも、結婚しなければ、女性は「負け犬」である、という挑発的なフレーズで、今も売れ続けています。この本の特徴は、その「負け犬」の恨みつらみや、悲惨な状況を告発するわけではない、ということです。「負け犬」の「負け犬」による「負け犬」のためのエッセイ。著者自身が「負け犬」であり、将来への不安をもちながらも、「勝ち」にいくことのできない自分を自虐的に笑いながら、綴ります。例えば、男性の年上上司に、フグ料理を食べに誘われた場合、「リスクが大きい」と判断し、断るのが「勝ち犬」、「フグ?どんな味?食べてみたい?」とフラフラ誘われて不倫への道へ入ってしまうのが「負け犬」という具合に面白おかしく書かれています。
 私は、この本が好きです。購入してからゲラゲラ笑いながら、何度も読み返しました。軽妙な文体と、少し毒の効いたユーモアは、良いストレス発散になりました。でも、最近、そうそう笑ってもいられなくなりました。この本の社会での受け容れられ方は、私の予想外の方法だったからです。
 確か「an an」だったと思うのですが、女性向の雑誌で、芸人が「好みの女性」について対談する、という企画が掲載されていました。その対談の中で、ある芸人は、この『負け犬の遠吠え』を紹介しながら、「こんな感じの負け犬なら許せる」というようなことを発言していました。これが、私にとっての嫌な予感の始まりでした。
 そもそも、この本は、「社会的・人間的・生物的責務を果たしてない」と言われれてしまう「負け犬」からの反撃として書かれたはずでした。それも、真正面から闘うのではなくて、最初から「私は負けてますよ」と宣言することで、その闘いを無効化するはずでした。ところが、この芸人にとって、この本は、「良い負け犬」の本だと認識されているようでした。
 非常に残念なことですが、現在、厳然とこの社会には女性への差別があります。そして、できれば、この差別から目をそらしたいと多くの人は思っています。そこで、「差別、差別と騒ぐヤツは、不細工でもてないフェミニスト」というようなレッテルによって、女性差別を告発する人間自体を差別する構造が出来ています。著者は、その構造を熟知しており、周到に、「フツウ」にもてるし美人なんだけど憎めない女性像を「負け犬」に設定しています。その戦略により、女性差別を告発する人間に向けられる差別の目をかいくぐり、多くの出版部数をのばしました。そして、より戦略的に女性差別は告発されるはずでした。
 でも、結局、その戦略は、「美人でもてる」ヤツなら結婚しなくても許してやろう、という言説を生みました。逆を言えば、「美人でもてる」ヤツ以外は、差別を告発するな、ということです。ついでに言うと、高学歴で高収入で、面白おかしく、「俺を不快にさせないヤツ」なら、許してやろう、という言説です。
 これは、数年前に発行された『五体不満足』と同じ構造です。小浜逸郎(最近のこの人は痛々しくてみてられないですが)は、『五体不満足』によって障害者への差別が目隠しされることを指摘しました。つまり、裕福で楽しく暮らしている障害者、というイメージは、健常者にとっては快感であり、貧困で苦しんでいる障害者の現実から目をそらさせる役割を果たしているというのです。「本当は障害者は健常者と同じように幸せなんだ」という言説は、確かに、「障害者=可哀想」という極端な発想が用いられやすい現在の状況では有効でしょうが、同時に、「障害者には支援が必要で、その支援は今も十分ではない」という現実を隠してしまいます。
 同じように、「負け犬」は幸せなんだ、という言説は、現在、女性が被っている差別を隠す役割を果たしかねません。『負け犬の遠吠え』は『五体不満足』もそうであったように、裕福で恵まれた生活を送っている「負け犬」しか出てきません。「歌舞伎をみて、レストランで食事をする」という「負け犬」のイメージは、それまでの、結婚していない(できない)女性のイメージを刷新し、よりポジティブなものにしたかもしれません。でも、それで終わっては、「負け犬」の中の「良い負け犬」という「勝ち組」を生むだけです。
 あまり認識したくないのですが、どうも『負け犬の遠吠え』は私が危惧したような受け容れ方をされ、消費されていくようです。この本は、支持しにくい本になってしまいました。