矢沢あい「NANA」11巻と斎藤美奈子「モダンガール論」

 私は「NANA」の連載当時から読んでいたのですが、こんなにも売れるとは思いませんでした。気が付けば、凄まじい勢いの大ヒット作になってしまいました。
 あらすじは、夢は結婚して家族を持つことという平凡な奈々と、夢は歌手になってスターになることという非凡なナナ、この二人の成長物語というところでしょうか。勿論、登場人物は他にもたくさんいて、恋愛だの仕事だので、二人はもまれていきます。前半は、奈々とナナは部屋をシェアリングしていたのですが、奈々が妊娠したので部屋を出て行き、今は、二人は別々に暮らしています。そして、この両極端な二人は、強烈に惹かれあっています。
 ところで、この構図は、まさに斎藤美奈子が「モダンガール論」で言うところの、二つの出世を対比させているではないですか。斎藤は、「女の子には出世の道が二つある」と指摘し、仕事をして社長になる道と、社長と結婚して社長婦人になる道を示しました。そして、斎藤は、二つあることがお得なのではなくて、一方の道を選ぶと、一方の道は断念しなくてはならない、という、この二つの道によって女性が引き裂かれることを序章で述べています。

だから女はずるいんだ、と男はいう。「いいよなあ、君らは。仕事がいやになったら、結婚しちゃえばいいんだから。」そうさ、うらやましいか、である。なんならあんたも二つの道の間で悩んでみればいーじゃない。(斎藤美奈子「モダンガール論」マガジンハウス、2000年、8頁)

結局、「NANA」が描いたのは、この二つの道での揺れ動きであり、現在の女の子の悩みはこの揺れ動きだということです。それまで、少女漫画を読む女の子、というのは、奈々タイプの、結婚して社長婦人になるのが夢だと思われてきました。そして、それが女の子のマジョリティを占めているのだという言説が有効でした。勿論、それは今でも有効な言説でしょう。実際に、結婚して家族を持ちたいという女の子はたくさんいて、バリバリキャリアウーマンで、一人で生きていく、というタイプは少ないかもしれません。
 が、結婚して家族を持ちたい、と思っている女の子だって、その夢で100パーセント埋められているわけではないでしょう。どこかで、「私も、思い切り夢を追ってみたい」という欲望は、何パーセントかを占めているでしょう。また、キャリアウーマンを目指す女の子だって、何パーセントかは、「結婚して家族を持つってどんな感じだろう」と思うでしょう。「NANA」はその部分も、描き逃しません。奈々は、ナナの夢を追う生き方に憧れ、自分の生き方に疑問をもちます。また、ナナも奈々のように結婚、出産を夢見る生き方ができる体である(=女である)ことに疑問をもちます。二人は、お互いの生き方に触れることで、自分の生き方は全てではないことを思い知らされるのです。そして、二人は、お互いを強く求めます。なぜなら、一人では、二つの道の両方を歩むことはできないからです。奈々とナナはお互いを分身とし、そして一つになることで初めて完全になれるのです。
 これって、もしかして、弁証法ではないでしょうか。私は、「メトロポリス」という古い映画の批評(ヒュイッセンの紹介によるもの)を思い出しました。ブルジョアジーの息子と、労働者の娘が出会い、惹かれあい引き裂かれ、でも結局ラストシーンで結ばれます。そして、「ブルジョアジーの頭脳と労働者の手によって社会は保たれる」という台詞が出ます。このシーンについて、左翼的な批評家たちが、「これは安易な精神と肉体の弁証法だ」と批判しました。つまり、ブルジョアと労働者の間には、金銭的、権威的権力構造があるのに、それを隠蔽して、まるで弁証されたかのような表現は、労働者を幻視によって撹乱しようとしているという主張です。
 奈々は、男性と結婚しても自分の欲望は一つの道しか叶えられません。でも、ナナが自分の代わりにもう一つの道を成就してくれて、それに自分を重ねて同一視すれば、両方の道が達成されたと思えるかもしれません。そして、ナナも、奈々に自分を同一視すれば、両方の道が達成されるのです。しかし、矢沢あいはなかなか、手を緩めてくれません。最近の「NANA」では、この奈々とナナの同一視を阻もうとし始めました。例えば、奈々は妊娠することにより、ナナから離れざるを得ず、タクミと生きていくことを選択します。それは、恋愛感情だけではなく、金銭的な収入をタクミから得ることに価値があることを受け容れることです。また、ナナもレンから求婚され、それを受け容れます。それは、自分が女性であることを受け容れることです。結局、奈々とナナは一体化することはできず、お互いに不完全なままそれぞれの一つの道を歩み始めました。
 まだ、この漫画は完結されていないので、断言は出来ませんが、女の二つの道の弁証法は失敗するようです。奈々もナナも、自分の不完全さは自分で引き受けていくしかないことを、最近の展開では突きつけられています。矢沢あいは、おそらく「こうすれば女性の引き裂かれる問題は解決される」ことは提示しないでしょう。が、「NANA」を読む女の子たちは、奈々とナナがどうなるんだろうか、と想像を膨らませることで、自分の人生に思いをめぐらせるでしょう。多分、現在の女の子が求めているのはそういうことができる漫画です。
 なお、この日記は「narkoの日記」8月12日(http://d.hatena.ne.jp/narko/20040812)を参照しました。