Asia Contemporary Dance Festival 2004

 Theater db(大阪)でのコンテンポラリーダンスのフェスティバル(http://www.db-dancebox.org/sp/acdf2004/index.htm)を観に行ってきました。評価は…辛かったです。このフェスティバルはアジアの比較的若手のダンサーのソロ作品を集めた公演です。若手だし、大掛かりな作品もなく、習作展というところでした。チケットも、いろいろ割引があって、私は2500円で入場できました。だから、そんなに多くを求めたつもりはないんですが…感想を羅列。

 とにかく、前半が酷かった。シャーニー・ペングリー(オーストラリア)は事情があって、映像作品での参加だけれど、彼女がゴダールに憧れていることしか伝わってこなかった。もう、ノイズと不協和音にあわせてクネクネするのって前衛でもなんでもないよね。タイプライターの効果音と、白黒画像、早送り。モチーフは女性のペニスへの恐怖。10年前なら大ウケしたんだろうけど。
 エメ・スズキ(日本)はそれを上回る酷さ。プルプルしたり、不条理な動作を繰り返すのは、身体の強さがないと、単なるお遊戯にしかならない。身体の強さ、なんていうと誤解を招くかもしれないので、存在の強さと言い換えてもいいかもしれない。そこにただ在り続ける強さがないと、観ていて寒々しい。というか、私は眠かったから、途中で寝た。頼むから、肉体の訓練やってください。できないなら、できないなりの作品を。コンテンポラリーっぽいダンスを作っても、コンテンポラリー・ダンスにはならないという、いい例。
 アリフワラン・シャーハルディン(マレーシア)は「嘘」をモチーフにしていて、後半の映像の使い方は面白かった。文字のタイピングに追われるような演出は効果的。それでも、「監視=目→赤く光る」というのは、ハリウッドもしくはアニメ的で観ていて照れくさくなる。
 後半に入って、ピチェ・クランチュン(タイ)は一番おもしろかった。白塗りで、ゆっくり動いて、暗黒舞踏にそっくり。さすが、伝統舞踊は強い。階段から降りてきて、象の面をとって、腕についた白塗りをこすって、退場、というだけのパフォーマンスだけれど、楽しめた。彼は動くたびに、体の筋肉がピクピク動いて、それを観ているだけでも、面白い。効果音も、鳥のさえずりなんか使ったりして、ゴリゴリのオリエンタリズムで海外公演のツボをよく押さえていらっしゃる。
 最後のパク・ホビン(韓国)は、お経にあわせて、「飛びたいのに飛べない」というモチーフ。伝統舞踊の動きが派手で観ていて飽きない。私は、少し長く感じた。あと、舞台美術と演出は今ひとつ。あの翼の形の、天井からぶら下げていたオブジェはショボくて悲しい。最後の照明もクサイ。

 今回感じたのは、ただただ、伝統舞踊の強さ。ヨーロッパでは、基礎(メインストリーム)はクラシックバレエにあるので、動きもそれに準拠するし、民族舞踊は副次的に留まりがち。じゃあ、アジアは何に準拠するのか、というと、伝統舞踊に準拠すると、ヨーロッパに対してオリエンタリズムなアピールもできるので、得だと思う。どっちにしろ、何かに準拠しないダンスは弱い。
 結局、日本のエメ・スズキは、バレエや演劇をやっていたそうだけれども、何にも準拠しないポストモダンなダンスを作ろうとしているのだと思う。けれど、何にも準拠しない、というのは、結局弱い。伝統舞踊やバレエに準拠する、というのは、伝統舞踊やバレエの歴史性にも接続することになる。型や様式を学ぶことを通して、過去(先人たちの所業)に接続するのだ。過去のない、「いま・ここ」のダンスというのは、耳ざわりはいいし、新しいものの気がするけれど、結局それは自分の半径5メートルの世界のダンスを披露することになるのだ。
 中には、半径5メートルがとてつもなく広く深い人もいて、そういう人は新しいダンスを無から生み出すのだろうけれど、そういう人は天才と呼ばれる。そして、私はそんな人は一人も知らない。私は、「基礎が大事」という人は嫌いだし、言われるのも嫌いだけれど、それでもやっぱり基礎って大事なのね、そんなことを学んだフェスティバルでした。
 全体的に、衝撃を受けるような作品はなく、タイの人のダンスが気に入ったくらいですが、大阪で国際フェスが見れるというのは嬉しいです。Theater dbは決して大きな組織じゃないし、資金も潤沢とはいえないでしょうが、そんな中で、このフェスティバルを持続している意義は大きいと思います。
 Theater dbは大阪のフェスティバルゲートの中にあるのですが、フェスティバルゲートの衰退がみていて痛々しかったです。現在進行形で廃墟化しています。お店はほとんどが閉まり、人もあまりいません…