演劇/政治性

 あるMLを通して、シンポジウムのお知らせがありました。↓

http://yuda.edisc.jp/cuatrogatos/20040808/index.html

 私は東京から離れて暮らしているので、行けないんですが、それにしても、興味があるような無いような微妙なシンポジウムです。題名は「『いまさら演劇をやめられるか!』VS『廃業に向けた清算手続きを!』 」というもの。演劇知らない人(知ってても別系統でやってる人)にはさっぱり意味の分からない題名ですよね。
 このシンポジウムを企画しているのは、「左翼知識人」風の、アカデミックな演劇を目指す人びとです。別に、左翼運動をしようという気はないみたいなんですけども、やたら引用や学術用語をもちいりたがるところが、「左翼知識人」という言葉がまだ通用していた、あの時代を思い起こさせます。
 演劇の人というのは、2種類居ます。一つは上記のような、アカデミック系の演劇の人。もう一つは、エンターテイメント系の演劇の人です。エンターテイメント系の人は、一切学問的なことを勉強しないか、していないフリをします。彼らにとって、政治性は禁句です。政治問題を扱うことはあっても、その作品が政治性を持ってはならないのです。つまり、彼らはハリウッドを目指しているのです。
 私が、どちらをより好むかと聞かれると、前者のアカデミック系です。なにせ、お金のないハリウッドほど見ていて悲しくなることはないですから。先日みた、NHKの「シェーラザード」を見て、その気持ちはより大きくなりました。どうせ、日本の演劇界にお金はあまりないし、多分これからもお金が流入することもないでしょう。そもそも、そういう資本主義的な観点から演劇を評価することが正しい、とも思えません。
 ということで、今回のシンポジウムは、私の好ましいと思っているような団体が企画していると思うんですが…なんなんでしょう、この微妙さは。とにかく、彼らの書く文章にものすごく違和感を感じます。前提条件が、ものすごく多いんです。マルクス読んで、アドルノ読んで、デリダ読んで、アガンベン読んだ均か読めないような文章。学会誌ならともかく、そんな文章をwebで公開してどうするんだろう?というような複雑な気持ちです。そして、そういう、前提条件が多い文章って、結局60〜70年代の遺物なんではないかと思います。現在、そういう風な文章をリアルタイムで書ける、というのは何か感覚が私とはズレているようです。(最初、パロディでわざと古くさく書いてるのかと思った。)
 私は、「難しいことはわかんなーい」というつもりはないですが、専門用語が並んで、「否定神学」とか「下部構造」とか、もっと、減らせるでしょう?と皮肉っぽく言いたくなるほど、無造作に並べられる専門用語にウンザリ。イチイチ哲学用語を引かなくていいところは、引かないで書くのが、文章力というやつではないかと思っています。(私もジャルゴン乱用はよくやるので、自戒をこめて書いてるんですが。)
 昔、佐伯隆幸という批評家が、「難しいことを難しいこと書く」ことの重要性を説いていましたが、あれは、佐伯さんが、「自分は難しいことやって居るんだ」んだという自信と権威があるからこそ言えるのであって、たいしたことないことを、大言壮大に書くことは、みていて恥ずかしいです。彼らがやっていることを、たいしたことない、と言い切るつもりはないんですが、「たいしたことない」予感はあります。その予感が、私を余計に微妙な気持ちにさせます。
 それでも、近所でやってたら見に行っただろうな。もしかしたら、「たいしたことある」ことをやってるかもしれない、と小さな期待を抱いて。どっちにしろ、内野儀(今回のシンポの主催者ではない)が出てるなら、見に行きたかったですが。