市民と国民の闘い

 愛・蔵太さんのブログで、プロ国民という言葉を知りました。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040902

 2チャンネル等では、市民運動をする人々をプロ市民と呼ぶのは、すでに定着しつつあるようですが、国家主義を唱える人を逆にプロ国民と呼ぶという戦略です。私はこの記事をよんで、別のことを思い出しました。
 私は、わけあって、いわゆる右翼的な方と、左翼的な方と話したことがあります。
 右翼的な方はこう言います。
「私たちは国民なんだから、国民として義務を果たすべきだ」
と。私が、
「その国民という自覚はどこから芽生えるのですか」
と聞くと、彼らは一様に
「国民なら自然に芽生える」
と言います。
 左翼的な方はこう言います。
「私たちは市民なんだから、市民として義務を果たすべきだ」
と。私が、
「その市民という自覚はどこから芽生えるのですか」
と聞くと、彼らは一様に
「市民なら自然に芽生える」
と言います。
 一見、対立しようとしている彼らですが、この部分では一致しています。しかし、「自然に芽生える」というのは、論理的におかしなことです。なぜなら、自然に芽生えるはずならば、プロ国民の心にも市民の心が生まれ、プロ市民の心にも国民の心が生まれるはずだからです。ところが、現実には、プロ国民とプロ市民は対立しています。プロ国民とプロ市民の間には、二つを引き裂く何らかの要素があったはずです。
 プロ市民とプロ国民は、その要素をお互いに暴露しようとします。プロ市民は、何が原因で、プロ国民が「国民の心」を持つようになり、その原因がいかに間違っているのかを論じます。プロ市民は、何が原因で、プロ市民が「市民の心」を持つようになり、その原因が間違っているのかを論じます。
 その不断なき両者の格闘の結果は、素人の国民市民予備軍は、プロ国民にもプロ市民にも、長所と欠点があることを、知ってしまいました。
 この、何が原因で、人が一つの政治的イデオロギーを形成するのか、を解明する作業は、近代(もしくはそれ以前)の最もスタンダードな、知的作業です。西洋での啓蒙主義とは、それまで信じられていた神話を解体し、種明かしをしました。その啓蒙主義すらにも、種があることを主張したのがポストモダンです。彼らは、全ての主義主張、学説、言説にイデオロギーがあることを声高に宣誓しました。
 この全てにイデオロギーがあることを暴露されたことにより、一つの錯覚が生まれました。それは、全てのイデオロギーは均質で、選択可能だ、という錯覚です。
 プロ市民はプロ国民にこう言います。
「彼らは傲慢だ。本当の市民のおかれている現実(ex.難民の問題)を知ろうとしない。本当のことを知れば、彼らもきっと市民として自覚が芽生えるはずだ。」
プロ国民はプロ市民にこう言います。
「彼らは傲慢だ。本当の国民のおかれている現実(ex.国防の国際的状況)を知ろうとしない。本当のを知れば、彼らもきっと国民としての自覚が芽生えるはずだ。」
 彼らは頑なにまで、お互いの対等を信じています。戦後民主主義万歳。何か、きっかえさえあれば、相手はこちらのイデオロギーになびく(もしくは自分はなびいた)という前提は、お互いが交換可能な位置に居るという信頼です。彼らの議論は不毛ですが、彼らは議論が可能なのです。
 この国民と市民の闘い(特にネット上での喧嘩)が、どこか、のどかにみえるのは、そこが原因かもしれません。例えば、パレスチナ人とイスラエル人の議論だと、こうはいきません。彼らの議論は、パレスチナ人とイスラエル人の信じているものは、どんなに間違っていようとも、相手が決して自分のイデオロギーに賛同しないことを前提に行われます。なぜなら、彼らのイデオロギーは選択不可能であるからです。そこで自分のイデオロギーをどこまで押し通し、どこまで妥協するのかの議論になります。
 では、牧歌的なプロ市民とプロ国民の闘いはどこに終止符を打つべきなのか。それは、冒頭で話題に挙げた、「何が彼らをプロ市民/国民にしたのか」を、彼ら自身が解体することに求められると思います。「何が私をプロ市民/国民にしたのか」を開示したとき、初めてプロ市民/国民は選択不可能性を帯び、選び取るものではなく、体にはりついた忌まわしい呪いとなって現れるでしょう。イデオロギーとは本来、信じる者に快楽ではなく苦痛を与えるものです。
 私はその好例が姜尚中『在日』だと思っています。彼がプロ在日として、なぜ、プロ在日になったのかを丁寧に告白したとき、では、私はプロ在日とどう向き合うのか。プロ在日を形成させたものをどう取り扱うのか。そこから、全ては始まります。