ジャック・デリダの死

 未だに実感がありません。デリダが死んでしまいました。別に私は、彼と面識があるわけでもなく、著作もロクに読んでいないし、決して良い読者ですらなかったのですが、それでも衝撃は小さくありませんでした。サイードが死んだときには、残念ではあったけれど、元々危ないと聞いていたので、納得のできる死でした。ブランショが死んだときには、彼がまだ生きていたことが衝撃でした。しかし、デリダは…
 デリダは私にとって、とても魅力的な哲学者でした。初期のフッサールを中心に据えた精密な文献学から始まり、謎のテクストと呼ばれる中期の著作、最後には「政治的転向」と呼ばれたように、アクティビストとして政治への発言をものすごい勢いで行っていました。わかりにくい「差延」だの「郵便」だのの用語を考え出す人で、とっつき安い本ではなかったのだけれど、読んでいて、突然「呼びかけられた」ような感覚に陥る言葉が出てくるのが、私には堪らない魅力でした。
 私が、一時期繰り返して読んでいた本に『言葉にのって』があります。

赦しは、罪のない人や悔唆した人を赦すのではありません。それは、罪あるかぎりでの罪ある人を赦さなければならないのです。すると、極限においては、そこから、赦しの錯覚状態と言えるにちがいないような錯覚的な経験が生じもするわけです。つまり、現に自分の犯罪を反復しつつあるにちがいないような犯罪者を赦さなければならない、ということになるのです。そこにこそ、赦しのアポリアがあります。
ジャック・デリダ『言葉にのって』206-205頁)

赦しがあるためには、取り返しのつかないことが思い出され、それが現前し、その場が開いたままでいることを要します。もし傷が和らぎ、癒合したら、赦しの余地はもはやなくなります(同上、202−203頁)

 この「赦し」という言葉に私は今も取り憑かれています。 
 私は彼が赦そうとしたものは、存在そのものであったと考えています。ある行為をした彼/彼女ではなく、その行為をした/しないに関わらず、彼/彼女がそこに居ることを赦すこと。それは、時に、不可能にも思えることです。その存在、彼/彼女がそこに居ることに耐え続ける忍耐力を、デリダは要請しているようにみえました。
 それは、決して多くの人の有利には働かないでしょうが、同時に、私たちは、そうせざるおえない局面が少なからずあることも知っています。その存在に耐えること。それは、我慢することでも沈黙することでもなく、赦すことだというデリダの言葉に今も私は「呼びかけられた」と信じているし、応答したいと今でも思っています。たとえ、彼が死んだとしても。
 74歳の彼に、若輩の私が言うのもなんですが、「これからの活躍を期待していたのに…」という気持ちが強いです。彼は私にとって、一番、死なないで欲しい哲学者の一人でした。

ル・モンドに載ったデリダ追悼の記事の翻訳をされた方がいらっしゃいます。参考までに。